経験の時間軸と客観性のバランス
『客観性の落とし穴』という村上靖彦 氏のちくまプリマー新書をたまたま手にしました。
「先生の言っていることに客観的な妥当性はあるのですか?」
という学生からのたびたび受ける質問に触発され、
困窮した当事者や彼らをサポートする支援者の語りを一人ずつ細かく分析される著者のある意味での回答であると言えるでしょう。
客観性、数字による検証など、
ビジネスの世界に足を置くようになって、ずっと意識の対象であり続けました。
個人の感想ではなく、裏付けとなる客観的事実、「エビデンス」ということが特に重要視される昨今ですが、以前から統計や図表を使ってさまざまな主張の根拠として使ってきました。
“科学的”であること
というテーマで、京都大学理学研究科・理学部のサイトで、斉藤颯先生のコラム記事がありました。
(以下引用 https://sci.kyoto-u.ac.jp/ja/academics/programs/scicom/2015/201602/04)
————————-
幽霊や超能力といったものは、世間では科学的でないと言われます。では、そもそも科学的とは一体どういうことなのでしょうか?
それは2 つの特徴で説明できると思います。
1 つ目は、ある事柄について考えたり調べたりする時、その方法が同じならば、いつ・どこで・誰であったとしても、同じ答えや結果にたどり着くことです。これは再現性という性質です。言い換えると、調べる人によって結果がバラバラだったり、同じ人でも毎回違う答えが出てきたりするようなものは、”科学的”ではありません。別の人が結果をもう一度再現できなくてはならないのです。コツや勘のようなものは、誰にも説明できず、再現性が無い限りは科学的ではありません。
2 つ目は、原因と結果の関係がきちんとあるということです。これは因果関係という性質です。例えば、天気予報を完全に的中させることはまだ不可能ですが、気圧や気温、湿度によって天気が決まることはある程度はっきりしています。分かる範囲の法則を使って天気を予測するならば、たとえ完全には当たらないとしてもそれは十分に科学的なのです。あるいはスリッパを放って明日の天気を完璧に当てられる人が現れたとしても、スリッパと天気の間に関係がない限りは全く科学的ではないのです。
しかしながら、科学的なものとそうでないものの間にはっきりした境界線があるわけではなく、あくまでも程度の問題です。どのあたりが科学的でどの部分は科学的でないか、理由つけて皆が納得できる説明をすることこそが、まさに科学的な態度だと思います。
—————————
いまビジネスの最前線からちょっと距離を取って余裕を持って顧みるに
「真理はそれ以外にもある」
「一人ひとりの経験の内側に視点を取る営みが重要だ」
という著者のつぶやきに思わず頷いてしまいます。
かって大学院生時代に少しかじった現象学を思い出し、
顔の見えないデータや制度からではなく、一人ひとりの経験と語りから出発する思考方法に大きな刺激を受けました。
エビデンスとあわせて、一人ひとりとの関わり、小さな社会のコミュニティの形成にバランス感覚が重要であると改めて感じました。